行き付けの店で泡盛を飲みながら、石田さんは原稿用紙を見つめていた。「やっぱりここが一番落ち着くな」。
沖縄支店長代理の石田一雄さん(53)。今は東京の本社勤務だが、この5月まで「日航おじさん」として沖縄の子供たちに親しまれてきた。
原稿には難しい航空専門用語が並んでいる。石田さんはその1つ1つを子供にも分かる易しい言葉に置き換えていった。
地元紙・沖縄タイムスの子供欄に「ひこうきあれこれ・日航おじさんの質問箱」という連載を始めたのは着任後間もない1988年秋のこと。同紙の編集局長と飲んでいた時、持ち掛けられたのがきっかけだった。
引き受けたのはいいが、週1回、1000字近い枠を埋めるのは容易ではない。質問の内容に合わせ担当の部下に書かせたが、結局“編集長”の石田さんが手を加えることが多かった。カラーの挿絵は二人の女子社員が担当した。
沖縄の子供たちにとって、飛行機はとても身近な存在だ。他県から遠く離れ、周辺の島々へも飛行機で行くことが多く、交通手段として生活の中に溶け込んでいる。小・中学校や施設からの空港見学の申し込みもひっきりなし。それだけに反響は大きかった。「沖縄にいる間は子供たちと徹底的に付き合ってやろう」。次第にそんな気持ちが芽生えていった。
89年2月、日航は沖縄就航35周年を迎えた。関係者を招いて盛大なパーティーを企画。「いや、待て。ありきたりのパーティーなんぞ面白くない」。石田さんは子供たちから作文を募ることを35周年の記念行事にしようと呼び掛けた。
「質問箱」の特別版として募集したテーマは「大空を翔(か)ける私の夢」。小学校から高校まで300以上の作文が集まった。どれも力作ばかり。審査するのはつらい仕事だ。
苦労の末、20人を選び2泊3日の羽田空港見学に招待した。子供たちの中にはスチュワーデスやパイロット志願者が多い。訓練用のシミュレーターの操縦では、あまりにもうまいので教官の目を丸くさせた。
空港見学以上に子供たちを感激させたのが電車とモノレール。沖縄には鉄道がない。生まれて初めての体験だ。石田さんは、はしゃぐ彼らを見ながら実感した。「地域に溶け込めたのはこの子たちのおかげかもしれない」。
「僕らに飛行機のことをおしえてくれた さようなら日航おじさん」。東京に来る直前、石田さんの転勤が写真入りで新聞に大きく紹介された。これだけ惜しまれながら勤務地を離れる体験は、もう2度とないかもしれない。
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