私の住んでいる大分県中津市の、分間の浦でうたわれた歌が、万葉集巻十五に八首のっている。歌をよんでみるとただの旅ではなく、天王の御命令によって来たらしいということである。何のために、どうして立寄ったのであろうか。素朴な疑問が湧いてきた。歌の内容はこのあたりの風土を殆ど詠っておらず、ただただ都を思い妻を懐かしむ歌ばかりである。詞書きには、逆風にあって漂流のはて下毛郡分間の浦に流れついたとある。この中津分間の浦に漂着した一行は、天平八年(736)新羅へ使わされた遣新羅使人たちだったのである。
遣唐使のことは歴史の本に詳しく書かれているが、遣新羅使のことはあまり知られていない。武者小路実氏の論文『遣新羅使歌の背景』に当時、日本と新羅との関係をこう書いてある。「新羅は朝鮮三国の中で最も日本に近く、日本より侵攻される位置にあったため、互いに敵視しあっていた。ことに大陸の統一をなしとげてその余勢をかって朝鮮半島に領域を広げようとする唐と新羅の武烈王が手をつなぎ、日本と親しかった百済王が亡されてしまうとその対立はさらに激しくなった。日本は丁度大化改新(645)に成功して律令制による古代国家の強化につとめているときであり、日本は大軍を送って百済を助けようとして白村江の戦(663)で唐、新羅の連合軍に大敗してしまった。しかし、翌年唐は新羅を孤立させるため日本との国交回復をもとめてきたのである。すると新羅も安全を計ろうとまもなく日本へ使者をよこしてきた。そこで日本は危機を脱することが出来たのである。これから726年まで相互の使者を往来させ表面上は穏やかに国交が行われた。新羅は軍事的組織が強かったのでさら高句麗も倒して統一的な民族国家をつくり上げていた。それから八世紀の初頭まで新羅は比べもののない美しい文化を生み出すことになったのである。又、唐は最盛期、日本も藤原京、平城京初期にいたる国力上向時代であり、これら三国の勢力が釣り合いがとれていたと云ってもよい時代であった。しかし、この均衡状態もそれぞれの国内の情勢によってくずれ始めることになる。
新羅は未開発地(渤海)を侵略することでこれに対する防備の負担をおわなければならなくなってきた。その渤海と日本との国交が始まると日本と新羅との関係が悪化してきた。天平四年、新羅の使がその来朝を三年一期に減じようとしたことはまず日本にとって面白くなかった。しかも丁度この使者と入れ違いに行動した日本の遣新羅使が何を見聞してきたのか帰朝すると同時に非常事態を宣言したのである。東海、東山、山陰、西海の四道の節度使の任命がそれである。これは軍事的な意識をもつもので、烽の設置や山陰や西海道の警固式の発布など切迫した空気であった。何が新羅の態度を硬化させたのか、何が日本政府をおそれさせたのか、これより約二年間使者の往来はなかった。」
|