久恒照智さん―かけがえのない友を失う― 横松宗

 

また一人かけがえのない友を失った。永らくの病の床にあった久恒照智さんが亡くなったのは、二〇〇一年八月三十日であった。

 久恒さんが病臥されてから、私の方も何くれとなく忙しくてご無沙汰していた上に、この春から初夏にかけて、私自身も激しい病魔に襲われて入院加療を余儀なくされていた。幸い退院してから、先日許されて久しぶりに病院にお訪ねすることができた。

 久恒さんは対話は不自由であったとはいえ、達者のときと変らず、いなそれ以上に私の来訪を喜んでくれた。私はまず病気のお見舞いをしたあと、互いの家族のことなど最近の生活の様子をお話しした。久恒さんは終始笑顔で気持ちよくうなずいてくれた。

 当日は十分に話すことができたわけではないが、疲れないうちにと近日中の再訪を約してお別れした。だがそれが最後になろうとは予想だにしなかった。それから数日して、突然の訃報に接して茫然としてしまったのである。


 久恒さんの生い立ちや中津に来られるまで、また中津に来てからの職場でのくわしい生活については、私はほとんど知らない。だが、ふだんのお付合いの中で、久恒さんが語ったお話の中で、久恒さんは一九二三年(大正十二年)三月、九州最大の都市福岡市の繁華街に生を享け、筑紫中学をへて、東京の拓殖大学に入った。在学中「学徒出陣」で出征した。

 戦後復員してから再び大学に帰り、四十八年(昭和二十三年)卒業とともに、父親の地中津に帰られ、市役所の職員となった。久恒家は代々市内宮永の素封家でもあり、親戚もあったからだと思われる。

 久恒さんは市役所に三十一年間勤められ、収入役室長を最後に退職して、悠々自適の生活に入り、もともと興味をもっていた勉学に打ち込むようになった。

 私が個人的に久恒さんを知ったのは、課長の職にあったときだったと記憶している。初めて会ったときから、その人柄に親しみをおぼえ、見方や考え方に共感と感銘をおぼえ、このことがきっかけとなって、ときどき往き来するようになった。

 一方これより先、夫人となった啓子さんも、終戦前後から中津に住むようになり、市役所の職員として勤められるようになっていた。

 まもなく職員組合の婦人部長をされていたとき、たまたま招かれて、民主主義か何かのテーマで講演する機会を与えられた。私は当時の啓子さんのリーダーシップぶりになんとなく頼もしさを感ずるようになった。二人が何時結婚されたかは知る由もなかったが、二人それぞれに親しみをもったことは、おのずと家族同士のお付き合いをするきっかけとなり、啓一君をはじめ三人のお子さんを知るようになったのである。

 そのうち久恒さんは、生来持っていた向学の意欲おさえがたく、私たちの集まりにも出て、八六年(昭和六一年)からは「福沢諭吉を英語で読む会」に参加するようになった。この会は、福沢先生の唯一人の孫(当時)の清岡瑛一氏が、福沢の著書を英訳したものを学ぶ会で、まず福沢の教育論を学び、ついでに女性論を終え、十五年を経た今日は『福翁自伝』を輪読している。久恒さんは、始めて間もなく加わっていたように思う。

 やがて、約二十人の仲間たちは、会合のあるごとに、久恒さんの博学と見識の深さにひきつけられるようになった。

 だが、不幸にして、中途で突然脳こうそくにかかり病の床に臥すこととなった。その後は、夫人の看護を受けていたが、ときどき夫人の介助によって私の家にも訪ねてくれていた。私達のことばは十分に聞きとってくれていたが、みずからは自由に話すことができなかったことが残念であった。

 久恒さんは、もともと多くの書物を読破されていながらも寡黙で、かつ文章を発表することもきわめてひかえ目であった。その中で、夫人も編集委員として協力している同人誌「邪馬台」に二度だけ文章を寄せている。その一つは七三号(八四年冬号)で、他は七九号(八六年夏号)であった。実はこの二つとも私の著書と論文に関する貴重な感想であった。その中には、中国文学中最も難解とされている魯迅についてのものもふくまれている。それは矛盾多きがゆえに、それだけ深い人間性をもつ久恒さんでなくては不可能のことであるといえる。

 ここに私自身の文章にふれることは、いささかおこがましくもあるが、久恒さんの評論を今改めて読み返してみて驚いたことは、私の文について語っているところが、そのままご本人自身を語っていることである。文中にはしばしば私のことばを引用してくれているが、それらは、一つづつ久恒さんの人間理解の深さと広さをもって私の文の意味を補ってくれているとさえいえる。しかも久恒さんを知っていなかったということを教えれたのである。

 「人生、一の知己を得れば足る」という諺がある。まことに人間にとって、己を知ってくれる友を得るほど尊いことはない。これからこそもっと深いお付合いをしてもっともっと互に啓発してもらいたいと念願していた矢先、かけがえのない友を失ったということは、何という悲しいことであろう。

 久恒さんが役所でどんな生活をしていたかは、私はほとんど知らない。だが、少し立ち入ったことにふれることを許してもらえば、職場の中では、久恒さんの人間性をほんとうに理解してくれる同僚は少なかったのではないかと想像される。それだけに、その余命を十分に花咲かせてもらいたかったと思うのは私だけであろうか。

 だが人間の運命というものは、予め考えていたシナリオ通りに進められるものではない。人びととの別れもまた同じであろう。とくに肝胆相照らす人との出会いは、それ自身すばらしいことだが、別れることは、それにも増して何と苦しいことであろう。

 実は、前にも述べたように、私自身この春激しい病魔に襲われ、一時は生死の境を彷徨するという経験をしたが、幸い生還することができ、一度病院にお見舞いした上、霊前に弔辞をささげることができたのも、あの世の久恒さんのお引合せによるのではないかとさえ思われる。

 ともあれ、久恒さんは晩年優しい夫人とすばらしい子どもや孫たちに恵まれ、彼らに囲まれて何の苦しみもなく大往生されたことを思えば、これ以上の幸福はなかったと思う。だが、忌憚なく語り合えることのできるかけがえのない友を失ったことは、私のとってはこの上なく悲しいことであったといってよい。


(おことわり)
  この文は久恒照智さんの葬儀にあたって、霊前にささげた弔辞を若干補足したものである。

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