『知的生産の技術』
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たびたびのエクスペディションでの成果をまとめるには、さまざまな工夫が必要だった。わたしははやくから、カードをもちいてデータを整理する方法をかんがえていた。そのような工夫の数々を、1956年ごろから、岩波書店の広報誌『図書』に「知的生産の技術について」という題で連載していた。それが完結しないうちにまとめて岩波新書の一冊として出すことになった。わたしは今まで書いた分に大幅な加筆を施し、表題を『知的生産の技術』とした。
わたしは第二次ヨーロッパ調査でイタリアに出発するまえに、原稿をわたして旅だった。出来上がった本を手にしたのは、ユーゴスラビアのベオグラードのホテルにおいてだった。ところがこれがベストセラーになっていることを、ローマの日本大使館で聞いて驚いた。
帰国してみると、この本はすでになんども重版されていた。その後も毎年半を重ねてロングセラーとなり、今日に至っている。
この本は波及効果もおおきかったようだ。読者のひとり八木哲郎氏はこの本に刺激されて、すぐに「知的生産の技術」研究会という会を組織された。八木氏は大宅壮一氏の門下生の一人である。この研究会、略称「知研」
は、その後も発展をつづけ、知的生産の技術に関する出版物をたくさん出した。いまも八木氏の主催のもとで全国組織になって、多数の会員を擁している。わたしはこの「知研」の特別顧問ということになっている。
「知研」会員たちの熱心な努力によって、その後さまざまな技法が展開している。1997年度の新設された県立の宮城大学では「知的生産の技術」が正規の学科として取り上げられたて、講義がおこなわれることとなった。教授には「知研」会員の久恒啓一氏が就任した。彼は日本航空の社員だったが、思い切って転身を決意したという。
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梅棹忠夫 「行為と妄想」より |