『一期一会』

須藤晨三 日本航空(株)常務取締役(当時)

日本航空のサービスの評判は1987年に完全民営化された後も余り芳しくなかった。
完全民営化に備えてニュー・ジャル・セミナーを全社員に展開して来たにも拘わらず、官僚的だとかお高いとか冷たいという批判が強く、90年代に入ると人気はむしろ時間と共に落ちつつある趨勢だった。サービス産業を標榜する以上、お客様の評価を中心に据えた経営を行うべきだと考える人達が社内に増えて来たが、私もそのひとりだった。
丁度その頃、私は人事部を担当し、組織の改廃も仕事の一つだったので、全社的な「サービス委員会」を作ることを経営のトップに進言したところ、「よし、やろう。事務局の担当は言い出しっぺのお前がやれ。」と言われてしまった。今考えても冷や汗が出るが、委員会や事務局が何をやるべきかについて、私には何の具体的構想もなかったのである。あったのは、日航に対する厳しい評価を何とかしなければいけないという焦燥感だけだった。入社以来30年間、サービスの仕事に直接携わったことは一度もなかったのだから仕方が無いことかもしれない。ただ、人事をやっているとそれなりの勘がはたらくもので、このサービス改善運動の成否の鍵が事務局長の人選にあることだけは良く判っていた。委員会の構成は役員であり、決定権限は委員会が持っているが、改善運動の推進に必要なエネルギーは事務局が作り出さなければならない。ところが、私の力不足で、事務局には何も職務権限を与えることが出来ず、調整機能しか無い。元々、改善運動をやるのに権限とか職務とかを持ち出すのが筋違いなのだが、サービスを担当している部門から見れば、急ごしらえの事務局が自分の仕事に口を挟んでくるとなれば、お前の権限は何なんだ、ということになりかねない。事務局とサービス部門が軋轢を起こせば、本来外に向かって発揮されるべきエネルギーが内部で浪費されてしまう。事務局としては、相手に職務権限論を持ち出させず、相手のプライドを(致命的に)傷つけず、相手にその気になってもらう、という極めて難しい、わが社でもこれまで経験したことの無い役割を担わされたのである。
そうした未経験の荒海に海図無しで乗り出す船の船長と乗組員の人選が、私の最初の、そして、もっとも重要な仕事だった。
市川さん、それがあなたと会うきっかけでした。事務局長を誰にするか考えた時に、私は物集女さんに相談しました。サービス改善に熱心だった空港部門から事務局長を選ぼうと思ったからです。「現場の共感・協力を得ようとするならば、彼の行動力・元気・熱意に頼るべし」と、あなたを推薦されました。現場経験のない私は、ともすれば、頭で考え、理屈で攻める方に偏りがちです。しかし議論で勝っても相手がついてこなければ、このサービス改善運動は絵に描いた餅になってしまいます。また、私の心の中には、「意識改革先にありき」、ではなく、サービス改革を先にやることによってお客様に評価してもらい、仕事の遣り甲斐を感じることで意識が変わるようにしていきたい、という思いがありました。そして、お客様から評価されるための知恵や工夫は、現場にこそある、とも思っていました。それまで、私のあなたは同じ職場で働いたことも無かったし、口を利いたこともありませんでした。顔を合わせることすら殆ど無かったと思います。現場主義を口では唱えながら、本社と接触のある人物しか頭に浮かばなかった私は不意を突かれた形でしたが、物集女さんの言葉には説得力がありました。
「市川さんで行こう」と決め、それからあなたが東京ビル8階の人事部の部屋に現れるまで、どのくらい時間が経過したか今はもう覚えていませんが、会った時の挨拶の声の大きさに驚いたことを昨日のようにはっきり覚えています。人事部は大体小声で仕事をするところで、ベテランになると電話で話をしていても隣のデスクにすら聞こえないと言われていましたから、あなたの挨拶は、まるで最弱音の室内楽の最中にシンバルが鳴り響いた様で、極めて印象深く、かつ、みんなをギョッとさせるほどのインパクトがありました。委員会の将来については、設置の発案者である私がこれからどうするのか考えが固まっておらず、先行きに不安をもっている位でしたから、あなたも、事務局長とは一体何をやるのか、さぞ不安に思っていたのではないかと思います。しかし、あなたはそうした気持ちは微塵も表に出さなかった。あなたの持っている前向きのエネルギーと明るさが伝わって来て、私はほっとしました。「これならいける」そう思ったのです。乗り組み員は、本来ならば船長のあなたが選ぶべきだったのでしょうが、これも、中核については私の独断専行で決めてしまってありました。初代メンバーの顔ぶれは、いずれも各部門の一騎当千のつわもので、個々の能力・力量には私も自信がありましたが、彼らをどう纏め、総合力を発揮して行くかは、あなたの腕にかかっていました。あなたと初対面の彼らは、何でも従順にあなたに従う、というタイプではありません。むしろ、上下関係や慣習に囚われない、改革意欲の強い、間違いは間違いとはっきり言えるタイプを選んでいました。そして彼らもまたこの船が何処へ向かうのか、舵を取る船長がどういう人物なのか、不安な気持ちを持っていたことでしょう。私・あなた・スタッフ、知らない同志の集まりが今までやったことの無い事業を始めることになったのです。
人事部の入り口のスペースに急ごしらえで作られた事務局室は机と椅子しか無く、電話から文房具まで自分達でそろえなければならなかった、あの92年2月の事務局発足当時の、なんとなくざわざわした不安げな雰囲気は今でもはっきり覚えています。北側にしか窓が無く、それも隣の建物に近接していて見晴らしも利かない、閉塞状態を絵に描いたような部屋でしたね。そこにあなたと山崎君と久恒君がいて、これからどうしようかを相談している。そういう光景を見るたび、私は自分が投じた石の波紋を目にするようで、胸がチクチク痛みました。
思い返せば、その年の2月から10月位までが、事務局としてサービス改善運動を軌道に乗せるための基盤固めと種まきの期間で、あなたが一番苦労した時期でした。やがて、部屋も東側に窓のある独立したスペースを確保でき、事務局スタッフも、客室本部からの着任もあり、徐々に増えて行きました。
その後も、社内には、何時になったら解散するのか、とか、或る程度軌道に乗ったら職制にまかせるべきだ、とか、いろいろ雑音もありましたが、あなたは在る時は戦い、或る時は説得し、或るときは陳情し、着実にサービス運動の輪を会社に広げて行きました。あなたとスタッフの団結力も奮闘振りも素晴らしいものでした。ストレスもフラストレーションも多い職場なのに、みんなが明るく、積極的で、仲が良かった。議論は活発だったが、必要な時はみんなで協力しあった。関連会社からの応援で参加したスタッフを含め、本当に一体感のあるチームをあなたは作り上げましたね。事務局を訪ねるのが楽しみになったのは、私だけでなく、多くのサポーターが生まれ、先客万来の活況を呈するようになりました。
「無から有を生む」という言葉がありますが、正にあなたとあなたのスタッフはそれをやり遂げました。海図を作り、航海術を編み出して、日航のサービス改善という、それまで誰も果たせなかった大航海に乗り出したのです。航海と言いましたが、これは終わりのない航海で、あなたの後を引き継いだクルーが今も航海を続けています。
あなたは6年近く全力投球した後、東京空港支店長に転出し、私もその後間も無く事務局担当から外れましたが、あなたと一緒に働いた数年間は、私のこれまでの人生の中で最も充実した瞬間でした。過去を懐かしがる気持ちでこう言うのではなく、あの数年間の経験が私に教えてくれたものは、今でも脈々と私の中に、そして、スタッフひとりひとりの中に、生き続けているからなのです。一期一会とはこういうことなのでしょう。

私の書棚に、サービス委員会事務局の同窓会の写真がフォトスタンドに入って飾ってあります。あなたも私も、そして全員が笑っている、とても良い写真です。

映画「紅の豚」の最後で加藤登紀子の歌う「時には昔の話を」は私の好きな歌で、いつか同窓会で歌おうと思っていました。しかし、あなたがいなくなってしまった今、もう人前で歌うことはないと思いますので、その最後の一節をここに書き写します。

 

一枚残った写真をご覧よ 髭面の男は君だね

何処にいるのか判らない友達も幾人かいるけど

あの日のすべてが空しいものだとそれは誰にも言えない

今でも同じように見果てぬ夢を描いて走り続けているよね

どこかで

文集「ひこうき雲」より

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