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群馬県教育センターで講演
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2004/2/24 (火) 22:06:46
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久恒啓一
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火曜日は、新任教員研修の最後の時間を
使った講演でした・450人。伊勢崎にて。
「新任教員への提案」というテーマ。
[3703]
ぼく的批判
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2004/2/26 (木) 22:05:44
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じゅんぺぃ
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先日は、わざわざご足労頂きありがとうございました。図解・・・一つの方法としてはすばらしく、それを利用できる場もあってもいいし、それが効果的に生かせる場があることも感じました。
しかしながら、勉強するなとか、まねするなといったものは、それほど、魅力的な言葉ではありませんでした。(魅力ある言葉として使ったと思いますが。)どんなものも無からは生まれはしません。生まれるとしたら、ぼくらがやっている教育なんて、なんの役にもたたないものになってしまいますし、ぼくはそうは思っていないんですね。どんな仕事でもやっていけるような力をつけるという目的においては、ぼくも久恒さんも同じだと思います。しかしながら、図であらわせない世界が確実に存在し、そういうものに人が動かされるケースのが多いような気がします。情熱とか、夢とかいったものは、夢と真ん中に書いてただでっかくくくればいいというようなものではありません。
ですから、OSとしては使えるものではないとぼくはおもっていますし、それがOSとして存在してしまったら学校教育はものすごく無味無臭のものになってしまいます。ただ単に利潤んを生産するという仕事においては、効果を発揮しますが、人の心を揺さぶる教育という場においては、いささか不釣合いな気がしています。もちろん、教える過程でその方法は使える場合もあることは、冒頭にかいたとおりです。ぼくは、ぜひ、真似をさせていただきたい。
しかし、それをどの場で使うか、そこに自分と久恒論のすりあわせがあり、それこそがオリジナリティであり、アイデンティティーではないでしょうか?企画力ではないでしょうか。モーツァルトも、偉大なビートルズもスピルバークも、湯川秀樹も、どんな偉人でも真似の天才ではなかったでしょうか。それを自分のスキルとして使える視点や力量があったと考えるべきではありませんか。僕自身、さまざまな人間の生き方や考え方、方法論を学んできまして、そういう素材をつかって、オリジナルの料理をするように授業でき、子どもに伝わったときはこの上ない喜びを感じます。齋藤孝論とブルーハーツに教えてもらったことの融合、太宰治と久恒論の融合、ようはアレンジする力が仕事の力量なのではないでしょうか?これは、勉強なしには成り立ちません。頭の悪い(使い方)人には、できないのではないでしょうか。その使い方を学ぶところが学校であり、読書であり、講演会であり、研修といえます。
(つづく)
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