アングル―――「会社」とは誰のことか
一灯を点じ、一隅を照らす
日本航空ほど反日航的言辞を奔する人の多い組織はないのではないか。
この原因のひとつは、仕事の細分化、専門化が進み、なかなか会社の全体を眺めることができないことだともいわれている。しかし飛行機の運航という縦軸はハッキリしているのであるから、部分としての仕事は全体とつながりやすいはずである。
各々の現場における問題の解決は、その大小にかかわらず、企業全体の運営に貢献するのである。
先ほどの反日航的言辞についていえば、問題の解決を会社だとか経営者だとか組合だとかに期待しすぎるところではないか。「会社は……」という言葉は、現場の職制にも多く聞こえる気がする。会社というのは自分の身のまわりの職場のことではないのか。
古い言葉だが、今ほど「一灯を点じ、一隅を照らす」人々が求められているときはない。
会して議せず、議して決せず
最近社内を歩いていると同じような言葉に出くわす機会が多くなった。
それは、「なかなかモノが決まらない」といった嘆きである。モノが決まらないゆえに、現場に蔭を落としていることも多い。組織が大きくなり、関連部の数も増え、権限も分散し、従がって責任も拡散されたこともその一因であろう。しかしそれ以上に大きいのは、表面的には利害の対立する課長同士で決まらないものは部長に上げ、そして関係役員会議にかけ、挙句のはては差戻しといったことがあるという現実である。
事業総本部制をとったのであるから課長レベルの調整で決められないことは少ないはずである。
実りある会議が少ないようであるが、つぎの戒めはいかがであろう。
「会して議せず、議して決せず、決して行わず、行ってその責をとらず」
肝に銘ずべき先達の言葉ではある。
さらにもう一つ気になる言葉がある。
「個人的には賛成だが……」「当時は直接の担当ではなかったが……」という言葉の横行である。その示唆するところは、決断する勇気の欠如や責任回避の言動が、社内のあらゆる分野、階層に浸透しているということであろう。
モラトリアム社風の革新
昭和52年頃慶応大学の碩学、小此木啓吾先生は「モラトリアム心理が若者のみならず現代人に共通の社会的性格になってきた」と発表した。常に当事者にはなりたくないという意識構造を、警告の意も込めてそう呼んだ。
この人間の心理は、「自己の可能性を残し、自己についての選択を回避、延期し、評論的である」ことである。本来、社会や組織を切り盛りすべき人々にも、だんだんこういう心理が忍び込んできつつある。さらにいうと、企業が公共性を帯びるほどだれの物でもなくなり、帰属意識もまた漠然としたものに拡散してしまう。半官半民企業は必然的にモラトリアム企業化する。これも革新すべき社風である。
問題回答型人材の時代は去った
今までの企業環境は、与えられた問題についてその最適解を求める作業が主であった。すなわち、一定の予算、人員、時間等の諸条件の下で方程式を解くということだった。戦後の民主化教育の真髄は、標準化された勤労者を育てることであった。欧米へのキャッチアップという所与のテーマにもっともふさわしい人材は、そういう問題回答能力の高い人であった。
当社も同じである。パンナムや英国航空という先進企業に追いつき追い越すためには、効率的に吸収し応用する能力が求められたのである。
それは高度成長、国際線の一元的運営という大状況下での対応であった。いわば受身の対応である。
しかし状況は一変した。
問題発掘の意志と問題形成の能力
労使関係という内憂、競争激化という外患のもとでは、従来の問題回答型の解決方式では対処していくことは難しい。しかも時代はモラトリアム化しているなかで、われわれに求められるものはなにか。
こういう激変下では、与えられた課題に答案を書くことだけでは不十分ではないか。むしろ既存のモノ(組織、政策、仕組み、分担、方法、行動様式)に疑問を持つことだ。
その際、未来を開くカギとなる問題は現場にあるのだから、「会社」に解決や責任を押しつけるべきではない。解決のヒントもまた現場にある。
そうした問題発掘の意志や問題形成の能力は、数学(そろばん)や倫理学(修身)の得意な人に存するのではなく、歴史(人間)や地理(市場)への造詣の深い人に備わっていることがポイントである。