キャリア開発史

軌跡―私の知的生産―

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 梅棹忠夫先生の名著「知的生産の技術」に出合ったのは、大学生の時でした。当時、探検部というクラブに所属していましたが、外国や離島へ探検に行った時のことを、どのように料理したらいいのか悩んでいましたので、この本に興味を持ったわけです。クラブの部誌をめくってみると、半分以上が私の書いた原稿でうまっていました。なぜそうなったかと言うと、私は何か行ったつと必ず報告書を書くように努力していたからだと思います。私の友人の中にも、行動は素晴らしいが、記録を残さないためにその足跡が残らず、残念ながらその行動が無駄になったことが多いように思います。

 私が初めてレポートらしきものを書いたのは大学の3年の時です。九大探検部の一員として沖縄の八重山群島へ約20日間ほど遠征したあと、全員で約100ページほどの報告書をつくりあげました。その中で私自身は、丁度沖縄の日本への返還の前でしたので、「沖縄の離島」というテーマを持って調査をしました。内容はたいしたことはありませんが、とにかく1ヶ月にわたる遠征の報告を自分自身の手でまとめるという体験を持ちました。

 大学の4年の時には、クラブは後輩にまかせて、就職してから返すという約束で銀行から30万円を借り、友人と二人でヨーロッパに旅行しました。梅棹先生の推奨するB6版の京大カードを常に持ち歩き、気がついた事なら何でもどんどんメモをしました。1ヶ月間のヨーロッパ旅行で二百枚近くのカードができあがりました。そのカードには、その時の生々しい体験や、新鮮な驚きがたくさん記されています。

 大学を卒業する時に学生生活をふり返るつもりで、20枚ほどの文章を書いてみました。今それを読み返してみると、「いったい、人間の幸せとは何か」をずっと考えるようにしたいと書いてあり、「就職しても考えることを大切にし、自分自身の人生を大切にしたい」と考えていたようでした。  ライフワークとは何でしょうか。私は社会に出てから、本当に自分が興味を持つものが、ライフワークになると思います。

 入社後、最初は工場の管理部門に配属になり、労務管理を担当しました。ここでは仲間を集めてKJ法の研究会をつづけました。今の私の知的生産の大きな武器となっているKJ法をこの時に体得したのです。

 次に札幌に転勤になります。この頃から「何かをやってみたい」と心底、思うようになりました。丁度会社で懸賞論文の募集があり、応募してみました。今考えると恥ずかしい限りなのですが、大上段にふりかぶった肩に力の入った論文でした。結果は、全くはしにも、ぼうにもかからないものでした。選者の評に、「地に足のついていない論文があった。もっと身近なところをみつめなければいけない」とあり、私自身に向けての言葉のような気がしました。今から思えば、よくあんな無茶な論文を書いたものだと、なつかしく思います。この失敗から、「自分のいるところを研究する以外にない」と思うようになりました。たまたま、支部の労働組合の調査局長をやっていましたので、私が中心となって、支店の白書を作ってみることにしました。10人位の仲間と一緒に一年間かかって、大変な労力を使って完成させました。題して「札幌空港支店白書」。千歳市という小さな町に企業があるということはいったいどういうことなのかという地域と企業とのかかわりを考えてみました。又、私達の生活の実体がどのようになっているのかという問題も考えました。具体的にいうと職員には百問のアンケートを実施し、75%以上の回収率を達成しました。データの分析には、手作業ではカバーしきれなくなったのでコンピュータも利用してみました。又、千歳市の市民の方々には、私達が直接インタビューを行い、200人以上の方々の意見を聞きました。  この経験から、集団で行う知的生産というものが一通り解ったような気がします。計画から始まり、一年かけて報告書をきちんと出すというところまでやるということが大変なことがよくわかりました。途中で投げ出そうとする人がでたりするのですが、そのつどムチでひっぱたいたりして、困難を切り抜けることができました。集団でやる知的生産が、個人の知的生産に勝っているのは、大きな問題、処理データの多い問題に取り組める点だと思います。結局、80ページ程の立派な白書ができあがりました。

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